不意に隣から聞こえてきた音にまどろんでいた意識が覚醒した。
単に隣人が帰って来ただけだろうと考えたが、どうも違和感を感じて身を起こす。立て続けに響いたガタガタッという音に交じって隣人が低い呻きのような声を洩らしている事に気付き、長い髪はそのままに慌てて上着を羽織り部屋を出た。
同じ作りのドアの前に立ち恐る恐るノックしようと手を上げた時、その扉が僅かに開いている事に気付く。そういえば、先ほど扉が閉まる音は聞こえなかったような気がする。悪いとは思いつつ、フィンランドはそっと扉の隙間から中の様子を覗いた。だが見える範囲に隣人の姿は無く、その細い室内の明かりだけがユラユラと揺れている様だけが目に映る。おかしいと僅かに首を傾げて扉から離れた瞬間、あの低い呻き声が聞こえてきて思わず身を竦ませた。


「スウェーデン・・・さん・・・・?」


少し躊躇いがちに隣人の名を呼ぶが返ってくる返事は無く、呻くような声も聞こえなくなる。ここまで来ると流石にただ事では無いと思い、フィンランドは意を決して扉を押し開けた。室内の淀んだ空気の中、微かな血の匂いを感じ取り思わず眉を顰める。部屋をぐるりと見回し、ベッドの向こうに倒れ込む大きな陰を視界に捉えた。また呻き声が聞こえた。


「っ・・・!?スウェーデンさん!!」


その倒れ込んだ陰の正体が隣人のスウェーデンだと気付き、フィンランドは急いで駆け寄る。だが、その姿を見咎めた瞬間「ひっ」と咽喉の奥が引き攣ったような悲鳴を上げた。



隣人はその全身を血と泥と傷で埋め尽くし、力尽きたかのように倒れ伏していた。



もしや死んでいるのかと思わず身を引くが、よくよく見ればその肩が苦しげに動いているのが分かる。痛みを堪えているのか、眉根をきつく寄せギュッと引き結んだ唇の端からも僅かに鮮血の落ちた跡が見て取れた。
とにかく、酷い怪我である事は間違いない。フィンランドはまず彼の無事を確かめるべく、傷に響かないよう、しかし目を覚まさせるようにして血で汚れた身体を揺さぶった。


「スウェーデンさん、スーさん!しっかりして下さい!」


何度か強く揺すり、大声で名前を呼ぶ。幾度目かで気が付いたのか、スウェーデンは一度瞼を震わせ、やがてゆっくりとその双眸を開いた。いつもは硝子越しのその眼差しは酷く虚ろで、美しく澄んでいたエメラルドも霞んでいるかのように見えた。
目の前にいるのが一体誰なのか分からないらしく、肩口から一房零れ落ちたフィンランドの淡色の髪に手を伸ばす。泥だらけの指先が触れようとした瞬間サラリと揺れたそれに、スウェーデンはハッと息を呑み覚醒した。


「フィ・・・ラン、ド・・・?」


ひび割れた唇から洩れた声は、それにすら血が混じっているのではないかと錯覚するほどに擦り切れて痛々しい。今にも途切れてしまいそうな意識を必死で保とうと数回瞬きするが、それすらも苦痛のようで再び呻き声を上げる。


「な・・・で、おめ・・・」


「喋らないで!とにかく手当てしなきゃ・・・僕に掴まって下さい!」


傷の理由を尋ねるよりもその手当てが先だと判断し、フィンランドはスウェーデンの身体に手を伸ばす。だが彼は僅かに頭を振りそれを拒否した。痛みに軋む身体を無理矢理起こそうと奮闘し、赤く濁った汗がパタパタと床に落ちて染みを作る。


「ダメですよ無理に動いちゃ!」


「え・・・がら、触っで・・ね・・・。おめの服さ・・・汚れ・・っがら・・・」


だから触るなと拒絶を示した彼に、悲しみとも怒りとも付かない感情が沸き上がりフィンランドはカッと頬を紅潮させた。今にも崩れそうなその腕を掴んで肩に廻し、自分よりも随分と大きいその身体を全身の力を込めて無理矢理に抱き起こした。そしてその重さを利用して勢いを付け、すぐ側に鎮座していたベッドに投げるようにしてスウェーデンの身体を下ろす。その衝撃は想像を超えていたようで、スウェーデンの顔が走り抜けた激痛に酷く歪んでいる。


「汚れなんて洗えば落ちます!そんな事気にしてる暇があったら自分の身体の心配して下さい!!」


真夜中に大声を上げるなど、普段は絶対にしない筈のフィンランドの怒鳴り声にスウェーデンは思わず黙り込んだ。その様子にもうこれ以上の無理はしないものと判断し、手当ての準備をする為に一先ず自室へ戻る。作業の邪魔になるであろう髪を一つに束ね、真っ白い清潔な布を数枚と薬箱を抱えて隣室へ運ぶ。そして再び部屋を出て洗濯場へ走り、桶に水を汲んで戻ってきた。
もはや身体を動かす体力が残っていないらしい、ベッドに放り出されたまま微動だにしない彼のボロボロに汚れた衣服を脱がして全身の傷を確認する。出血の割に傷自体は多くなく、見た目ほどに深いものでもないらしい。今すぐに命に関わるような怪我では無い事を見て取り、フィンランドはホッと胸を撫で下ろした。
だが重傷である事には変わりなく、早速手当てに取り掛かる。傷を広げないように気を付けながら濡らした布で全身の汚れを拭き、膏薬を塗ったガーゼを傷に当てて包帯を巻いていく。
その一連の作業の間、スウェーデンはジッと天井を見つめ思いに耽っていた。


「・・・どうして・・・・」


それまで黙って手当てを施していたフィンランドが、顔の擦り傷に膏薬を貼りながらポツリと小さく呟いた。それが震えてるように聞こえたので、もしかしたら泣いているのかもしれない。
無理もない。本来心優しい性格の彼が、こんなに傷だらけの同僚を見て何も思わないはずが無いのだから。


「どうして、こんな怪我・・・一体何があったんですか・・・?」


作業していたフィンランドの手が離れ、その目尻に雫が溜まっている事に気付く。スウェーデンは一つ息を吐き出し、双眸をゆっくりと伏せた。


「・・・おめは、知らんでえぇ・・・」


「そう・・・ですか・・・・」


事の当事者にそう言われてしまえば引き下がらずを得ない。元々はそんなに深い付き合いのある人ではないのだから仕方無いが、それでもフィンランドは心配の色をありありと顔に滲ませながら手当てを終えた。道具や薬瓶がぶつかる小さな音だけが部屋に響き、互いに長い沈黙の時間を過ごした。
やがてパタンと薬箱を閉じた音が聞こえ、スウェーデンは目を開ける。その先で、何か言いたげにこちらを覗き込んで来るフィンランドの瞳とぶつかった。いつもはすぐに逸らされてしまうその瞳の色は深い紫なのだと初めて気付く。美しい。ぼんやりした思考でそれだけ考えながら、彼の言葉を待った。
長い淡い金の髪が月の光を吸い込んで眩しく煌めく。それは短い方が似合うと以前言った覚えがあるが、切らない所を見ると本人は長い方が好きなのかも知れない。


「僕・・・・貴方の為に、何か出来ませんか・・・?」


不意に呟かれた言葉。その意味を時間をかけて理解したスウェーデンの目が大きく見開かれる。彼にとっては、よっぽど意外な台詞だったのだろう。滅多に見せない驚きの表情にフィンランド自身も少なからず驚いたが、それでも表情は真剣そのもので。
やがて、その紫から一滴欠片が零れ落ちた。


(もっだいねぇ)


痛みを堪えて手を伸ばし、割れた指先でその雫を掬い取る。
己の為に涙を落とすなど、なんて勿体無い事だろう。真実を知れば、彼はもっと悲しむと言うのに。
けれど、彼が己の為に泣いてくれる事に喜びを感じているのも事実。涙を拭ったその指で、柔らかなその頬をそっと撫でた。
また一滴、撫でられた跡を辿るように雫が滑る。


「・・・そっだら、フィン・・俺と・・・・」


そこまで言いかけて、スウェーデンは続きを呑み込んだ。何を言おうとしているのだと心の中で自分を叱責する。それは、決して望んではいけない事の筈。
持ち上げていた手をゆっくり下ろし、すぐ近くにあった彼の暖かな手に触れた。小首を傾げたまま言葉の続きを待っていたフィンランドは、突然手を包まれた事に驚いたが振り払う事はしない。


「スーさん・・・?」


「こんまま、ここさおっでくれ。寝付くまででえぇど」


それだけを告げ、スウェーデンは再び瞳を閉じた。
明日になれば、自分はもうここにはいられない。いられないだけの事が起きてしまった。恐らく、彼に触れる事が出来るのもこれが最後だろう。せめて、今夜だけでも。
その温もりの為か、急に襲ってきた疲労感と眠気に押し流される思考の中、切実なその想いを巡らせる。眠りに落ちる瞬間、その手を優しく握られた気がして何故か酷く泣きたくなった。


「・・・スーさん・・・」


目を閉じて数秒も経たない内に寝息を立て始めた彼の名を静かに呼ぶ。窓から差し込む冴え冴えとした冷たい月明かりが浮かび上がらせる姿が痛々しくて哀しい。


「スーさん、僕も・・・痛いです・・・」


握った手に頬を寄せる。暖かいと言うよりも熱くなり始めたそれに、傷が熱を持ち始めたのだと気付く。時折眉根を寄せる寝顔を、空いてる手でそっと撫でた。小さな傷の存在を指先に感じる度、フィンランド自身にもズキズキと痛みが走った。


「何故でしょう、痛いんです。スーさん」


胸が、とても。


その呟きは唇に乗せず、握る手に力を込めた。





1520年11月のある夜の話。



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