パァンッ!と小気味良い程に高く響いた音と同時に、左の頬がジンジンと痛む。 何が起こったのか分からず、無様に目を見開いている俺の前にいる少女(とは言っても、おそらく歳は俺より上だろうけど)がその大きな黒い瞳いっぱいに涙を溜めて睨み付けてきている。その顔立ちは、かつて自国にいたかの民族に良く似ていた。黒い髪と程好く日に焼けた肌は、その整った顔立ちに良く似合っているけれど、怒り満ちたその表情は普段温厚な彼女には似つかわしくない様に思えた。 頬を平手で殴られた為にずれてしまったテキサスを戻し、彼女の顔を覗き込む。唇を噛み締めて僅かに震えるその様子を見て、少しだけ困惑した。 (アンタは・・・っ、私の事何だと思ってるの・・・!私は玩具じゃないんだ!) 「やーや・・・っ、我んぬ事ぬーや思とーが・・・!我んや玩具やあいびらんど!」 いつもは優しい歌声を紡ぎ出すその声で責められる。怒鳴り終えた瞬間に零れた涙は、彼女が生まれ育ったあの島の美しい海と同じ色をしていた。 普段は日本と同じ言葉を使うのに、興奮して思わず飛び出した彼女自身の言語は未だに理解するのが難しく、しばし悩んだ後ようやく何を起こっているのか気がついた。 きっと、先日起こった立て続けの交通事故とそれが原因で起こった騒動の事だろう。それ以前からの不満に、油を注がれた結果という事か。 「いや・・・でも、あれはあれで上司連中がもう解決しちゃったしなぁ・・・」 俺にしては遠慮がちに呟いてみたのだけれど、キッと睨まれて思わず口を噤む。多分、今は何を言っても聞いては貰えないだろう。 互いに黙り込み、彼女のすすり泣く声だけが響く中吹き抜けた風が潮の匂いを運んでくる。傍らの低木に咲いた赤い花が揺れ、ゆっくりと地面に落ちた。 (・・・・お願いです・・・) 「・・・・御願ーさびら・・・」 どれだけそうしていたんだろう。不意に呟かれた声に彼女を見やると、先程とは打って変わった悲しげな顔でそれでもまっすぐに俺を見上げてくる瞳にぶつかった。あぁ、それはどういう意味だっただろうと思考を巡らしながら続きを待つ。 (お願いです、私をあの人の家に帰して下さい・・・・) 「御願ーさびら、我んをあぬ人ぬ家んかい帰ーしちみそーれ・・・・」 ジワリ、と再び涙が滲む黒い宝玉。 素直に綺麗だと思えたそれに手を伸ばし、指先で雫を拭う。濡れた指先を舐めれば、やはりあの紺碧と同じ味がした。 (お願いします・・っ・・・) 「御願ーさびら・・っ・・・」 帰りたい、と泣く少女。自分の置かれた状況やその肩にかかる重さは、確かに一人では背負い切れないものだと分かっている。分かっているけれど。 「でもさ・・・君は・・・・」 彼に見捨てられたんだよ? そう続けようとして、台詞を飲み込んだ。そんな事、言われなくたって彼女自身が誰よりも良く分かっているはずだし、これ以上追い詰めても仕方の無い事だろうから。 けれど、それでも帰りたいと彼女は泣くんだ。 「どうして、そんなに帰りたいと思うんだい?俺なら君を、もう一度一つの国として独立させてあげられるんだよ?」 少し諭す様に尋ねてみても、彼女はただ首を振るだけで。その意思は無いのだと、言葉に出さなくてもはっきりと分かった。一つの国として存在するよりも、彼の元で彼の一部として存在する方が良いと。 ・・・少なくとも、俺の手元に残るのは嫌だ、と。 (みんな分かってる。でも・・・・私の主(あるじ)は、本土のあの人なんです) 「むる分かといびん。やしが・・・・我の主や、大和ぬあぬ人やいびーんさ」 「・・・そう、分かったよ。彼が交渉を持ち掛けてくるのなら、それも考えてあげるさ」 あぁでも、俺にとっても君は最早ただで手放すには惜しすぎる存在になってしまったんだよ。 今の世界情勢を鑑みても、君の存在位置はとても重要で貴重なんだから。君の中にだって、俺に寄り掛かっている部分があるのも、否めない事実だろうしね。 「ただで手放すつもりは無いし、完全に解放なんかしてあげるもんか」 その細い体を掻き抱いて、暴れかけた両腕を制して口付けた。彼女の体から立ち上る南国特有の花の香りはとても甘く、クラリとした軽い眩暈をもたらす。 愛してる、とは少し違う。 そうではなくて、ただ必要なのだと何処か言い訳めいた台詞が頭の中に浮かんだ。それは彼女に対するものか、自分に対するものか。 それとも、彼に対するものなんだろうか。 彼女の体から完全に力が抜けたのを感じて手を離すと、思った通り崩れるように地べたへと座り込んだ。乱れた黒髪と紅潮した頬を見下ろし、ふと思いついた疑問が口を滑り落ちる。 「俺と日本、どっちが嫌い?」 「・・・・・・」 何も答えずに目を伏せる。それが、今の答えと言うんだろう。 「俺は君の事、結構好きだけどね」 背を向けたその後ろから風が吹き抜け、その中に彼女の声が混じっているのに気が付いた。だけど。 「『にふぇーでーびる』って、どういう意味だっけ?」 俺にはそれが、どうしても思い出せなかった。 |
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