後ろから声をかけられた時、立ち止まって振り返らなければ良かったと後悔するのが少し遅かった。 廊下の向こうから人当たりの良さそうな微笑を浮かべながら近寄ってくる青年の姿を見咎めた瞬間、聞こえなかったフリをして立ち去ろうとも思ったが、世界会議の会場となってるこの場所でそんな態度を取るのは好ましくない。下手をすれば国際問題にもなりかねないからだ。 多くの書類と資料を抱える自分に対して何も持っていない手をひらひらと振る彼の部屋は、確か会議室から近かったと覚えている。一度部屋に入りわざわざ追ってきたとでも言うのだろうか。 「久し振りだね〜、元気だった?」 「・・・・おう」 相変わらず柔らかい微笑を浮かべ軽い挨拶を交わしながらも、こちらを探るようなその目が酷く不快だと思う。何となく落ち着かない気を紛らわす為に一度書類を抱え直し、覚悟を決めて向き合うその間も彼の様子は全く変わらない。彼に対しては無表情を装う事など無意味だと言う事は、嫌というほど理解していた。 「・・・・・何ぞ用だべか?」 「そんなに邪険にしないでよ。せっかく近くに住んでるのに、全然遊びに来てくれないしさ」 あぁ、本当に彼の心情は理解が出来ない。一時的とは言え、自分の大切な連れ合いを奪ったような男とどうして馴れ合えると思うのだろう。あれから60年以上が経ち、国同士としての蟠りは希薄になったとしても一人の男としては思い出すのも憚られるような記憶が刻み込まれているというのに。他の者がいるのならまだしも、こうして二人面と向かって話をするのも居心地が悪い。 だが、彼はこちらの思いなど知りもせずに馴れ馴れしげに喋りつづける。あるいは、そんな事など最初から意に介していないのか。 「話聞いたよ、イギリスくんの所から養子取ったんだってね。幸せそうで羨ましいな」 ふ、と周囲の空気が冷えたような気がした。羨望と言うよりも妬みに近いようなその言葉に思わず息を呑む。廊下の角の向こうから聞こえた誰かの足音がやけに遠くに響くような気がする。そのまま通り過ぎていったその国の名前は何と言っただろう。 「メガネ、無いと何も見えない?」 余計な事を考えていた、一瞬の油断だった。 気が付けば眼前まで迫っていた彼の微笑みに驚き、固まったまま後退りさえ出来ない。それもまた拙かったのだと気付いたのは、青年の長い指がメガネのブリッジを摘み攫っていった後だった。勘が鈍ったとでも言うのだろうか、今この場で彼に対して行動が全て後手に廻ってしまっている自分に舌打ちしかけてどうにか堪える。 ぼやけた視界の中、そのまま無遠慮に近付いてくる青年の顔に眉を顰めるも時すでに遅く唇は耳元へ。肩を掴まれていた事にもようやく気付いた。 本当に、さっきから調子が悪すぎる。 「スウェーデンくんは、僕が嫌いなんだよね」 囁くような台詞に思い切り肯定してやりたかったのを、再びどうにか堪えきる。最早諦める他無いこの体勢と状況に、せめて誰も通らないでくれと投げ遣りに祈り小さな溜息を吐いた。抵抗を我慢したのだから、これぐらいは見逃してもらおう。 「・・・メガネさ返してけろ」 せめて何も見えない事だけはどうにかしたい、と切実な思いを込めて頼んでみる。だが、耳元から聞こえてきたのはクスクスと零れる楽しげな笑い声と、 「僕、君にとても興味があるんだ」 と言う何とも的外れな返答だけ。 彼の顔が離れていく際、頬に柔らかな感触を受けたのはきっと気のせいだろう。 「今度ロシアに遊びにおいでよ。なんなら、フィンランドくんと養子くんも連れて。その時にはコレ返してあげるから」 そんな身勝手な招待を残し、青年はメガネを攫って行ってしまった。視界が利かない中、彼のブーツの靴底が硬い廊下の床を踏む音だけがやけに響く。 メガネは新調すれば特に問題は無いので、招待を素直に受ける必要は無い。ましてや二人を伴ってなど行ける筈も無いのだが。 「どうすっかなぃ・・・・」 あのメガネは、コレが一番似合うと以前女房が褒めてくれて以来のお気に入りだったという事が問題だ。 予備のメガネを持ってきていて良かったと思うものの、荷物の何処に放り込んだかまでははっきり覚えてはいない。踵を返し、遠くなる足音を感じながら今度こそ盛大な溜息を吐いた。 スウェーデンの部屋を訪ねたフィンランドが、裸眼の彼の顔を見て悲鳴を上げたのはそれから5分後の話。 |
≪ Back To log? |