古い木の扉は、開閉の度にキシリと不快な音を立てる。寒々しい廊下に響くそれは言い様も無く耳障りで、眉間の皺は更に深く刻まれた。
 室内に入ると暗いその床に座り込む人影がゆっくりとこちらを見上げてくる。そのアメジストの双眸は、進入してきた己を見つけた瞬間激しい憎悪と嫌悪に彩られたが、次第に光が抜けていくように空になり、次いで僅かな安堵と哀しみを表しグニャリと歪んだ。泣いているのかと見間違えるも、彼の口元に浮かぶのは笑みだった。
 不意に左の肩がジクリと痛む。
 数日前、今目の前に蹲る彼の手によって深々とナイフを突き立てられたソコを、他の誰かに手当てさせる事は終ぞ無かった。今でも薄らと血が滲み、化膿しかけているのか鈍い痛みと錆びた匂いは、それでも彼の手によってもたらされた贖罪なのだと甘んじて受け入れている。
 己を傷付けた瞬間の彼は、実に満足そうだった。だがその表情は次第に崩れ、自分の行動を信じられないとでも言うかのように怯えながら泣き叫び許しを請うた。思えば、その時から彼の瞳は本来の穏やかな光を失ったのだろう。
 震える手で刃を引き抜き、止血しようと布を巻き傷口を押さえる彼を抱き締めてやれたら、少しは救いになってやれただろうか。それとも逆効果だったかもしれない。ただ一つ。その瞬間、今までの関係では、最早限界なのだと言う事だけは悟った。
 鍵のかかっていない扉と、彼がどうしてもと頼み込んだ、外そうと思えば外せる後ろ手の戒め。それでもこの部屋を出て行こうとしない彼の心情を、今は量ってやれない己の不甲斐無さに腹が立つ。


「スー・・・・・さ・・・・」


 乾いた唇が薄く己の名を呼ぶ。手に持つトレイを置き、目線を合わせるように屈み込むと暗い紫はゆっくりと細められた。眠れないのか、目の下に刻み込まれた疲労感が余計に痛々しくてそっと髪を撫でる。


「飯さ食。身体持たねっぞ」


 幼い子供に言い聞かせるようにしてみても、彼はゆっくりと首を振り、傷口のある左肩へと頭を押し付けた。そこから全身に響く鈍く強い痛みに、思わず息が詰まりグッと喉が鳴る。それに気付いたのか、ビクリと跳ねた彼の背中を残る右腕で抱き締めてやれば安堵したように体の力が抜けていく。だが、それでも止まらない震えは、恐らく彼の内にある嫌悪から来ているのだろう。彼が嫌々と駄々を捏ねるように頭を振る度、痛みは次々と全身を駆け抜けていく。それすらも、彼から与えられるものだと思えば愛おしささえ感じられた。


「スーさん、スーさん、僕はまだ僕のままですか?まだ笑っていられてますか?まだ壊れてませんか?ねぇ、スーさん、スーさん」


 確認を求めながら己の名を呼び続ける彼は壊れたレコーダーのようで、酷く哀れで滑稽だ。思わず抱く腕に力を込めても、彼の震えと声は止まらずにこの冷え切った闇を満たしていく。見ていられなくて、目を逸らしたくて、「フィン」と彼を呼ぶ。だが、返ってきたのは冷たい声音。凍った木々のような、命を閉じ込めた湖のような。


「ソレは、僕の名前じゃありません」


「・・・・・すまね」


 その名は、己が彼に与えた従属の証。彼にしてみれば、いわば足枷と首輪のような、被支配者の証明でしかない。だが、今はまだ宗主国である自分にはどうしても彼本来の名を口にすることが許されず、ただ黙って彼を抱き締める事しか出来ない。
 暫くそうして、少しずつ落ち着いてきた彼の動きが全て止まる頃を見計らい、その耳元に重要な決定事項をそっと告げる。


「明日にはおめの迎えさ来っから、飯食っとけ」


 ピクリと反応した身体が、その言葉の意味を悟った事を知らせた。


『あの子を貰うよ。前から欲しかったし、彼も君から離れたがってるみたいだからちょうど良いんじゃないかな?』


 邪気の無い笑みを浮かべながら事も無げにそう言ってのけた東の大国である青年の顔が思い浮かび、腹の底から重い何かがせり上がってくるような感覚に襲われる。青年はこの傷の存在を知っていたのだろう。
 此度の戦の戦勝国である彼からすれば、それは当然の権利だと言わざるを得ない。だが、その要求は死を望まれるよりも遥かに酷で耐えがたいものだった。今までこの手から零れ落ちていった様々な物を思い返してみても、よもや彼を失う日が来るなどと微塵にも思っていなかった己が逆に不思議なくらいの自惚れであったのかもしれない。だが、屈辱にいくら歯噛みして見せても結果が変わる事は有り得ない。敗戦国となった己にはその要求を拒否する立場になど無い事は痛いくらいに理解している。


『安心してよ、彼の事は気に入ってるから。楽しくやっていけると思うんだ』


 あの時、己はどんな顔をしていたのか。
 少なくとも、青年の形良い唇が愉悦に歪む程には哀れな無表情を保っていただろうけれど。


「・・・・僕、あの人に譲渡されるんですね・・・・?」


 ポツリと呟かれた台詞は、何と鋭く心内を抉るのだろうか。短く返した返事の後、再び長い沈黙が訪れる。今この時がこのままで永遠に止まってしまえば良いと願ってしまう愚かな望みを裁くのは、もはや目の前の彼しかいないのだ。
 このまま、彼が東の大国の一部となってしまえば、二度と会えなくなる事も有り得るだろう。かつては東欧において他の追随を許さないほどの勢力を誇ったかの国でさえ、今では幾度となくあの大国に攻め入られ分断され消滅の危機を迎えたのだから。彼の友人達の様に上手く立ち回らねば、いつ消滅してもおかしくない状況下に置かれる。その事実が恐ろしかった。だが、それよりも恐ろしいのは彼の民が、彼自身が。


「僕は、貴方から離れるのですか」


「・・・・・・んだ」


 己よりも、あの青年を選び取る事か。


「・・・・・っ」


 名を呼ぼうとしてみても、音は喉に痞えて唇に響かない。今すぐにこの胸を切り裂いて飲み込んだ言葉の全てを引き摺り出したかった。


「すまねぇ」


 あぁ、それでもコレだけは伝えなければ。それは今更なのかもしれないが、今更だからこそ己の言葉で、声で、彼に伝えなければ。それが何の救いにも贖罪にもならない事は、嫌と言うほど分かっているけれど。
 僅かでも動かせば走る左肩の激痛を綺麗に無視して、サラサラと指先を滑る柔らかなヘーゼルの髪を掻き分け、現れた耳元にそっと唇を寄せる。たとえ伝わらなくても、聞いてくれるだけでいい。
 この想いだけは、大国たる青年を相手にしても触れさせないし奪わせない。それが守るべき民や仕えるべき上司、果ては神にさえ背き、遥かヴァルハラへの道を閉ざされようとも手放す事は出来ない。
 それほどまでに、彼を。


「               」


 ビクリと震え、ゆっくりと上げられた顔。見開かれたアメジストの双眸に。


「スー・・・・さ・・・・・っ・・・!」


 彼の、本来の鮮やかな光が戻っていた。
 その眦から溢れる欠片達が神聖なまでに美しくて触れない。彼は、出会ったその日から今まで、何も変わらずにただただ綺麗なままだったのだと思う。


「スー、さん・・・っスーさん、スーさんスーさんスーさん!」


「・・・・・ん・・・・」


 声を上げて泣きじゃくる彼の身体を強く抱いた時、全身を満たす痛みが生まれた事に気付く。それは肩の傷では無くもっとずっと奥、己自身のもっとも深い所から這い上がってきたものだと知り、脳は泣いてしまえと命令を下した。だがそれは神経を通る間にすり返られ、目には届かず唇から零れ落ちたのは。


「さえなら」


 別れの言葉と口付けを送り、彼が泣き疲れ眠るまでその身体を離す事は無かった。





 けれど、この愚かな想いを赦してくれるのなら。少しでも想ってくれているのなら。


 あぁ、どうか。
 再び会えた時には笑って見せて。




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